名前をつけてやる

先日のUSAの記事にすごくたくさんのアクセスがあってビビっている。困るので削除しよかな…(※削除しました。すみません)

 

HSPという言葉を知って本を読んでみたのだけど、わたしほぼ間違いなくこれだと思う。

「敏感すぎる自分」を好きになれる本

「敏感すぎる自分」を好きになれる本

 

だけど、名前をつけたところでなんだっていうんだ。わたしが気晴らしにやっている当たり前のことをさも有効みたいに書かれているけど、それでも生きづらいのは変わらないし、自分が開き直っても、周りの理解がなければ普通でないという評価は変わらない。普通であるための努力をしなければ、普通の世の中で生きていけないのは変わらない。5人に1人のちょっと変わってる人間に、さも特別そうな名前をつけて、だからそうなんです、って言ったって、ほとんどの(この本で言うところの)聡明なHSPは、自分がそうであることはきっと人生をもって体感していて、すでに知っている。この本を読んだわたしの感想は、うん、で?だった。 

この本のせいで精神を揺さぶられているところに、散髪に行って美容師とのかなりどうでもいい会話の間に髪を切られすぎてしまって、髪型を見た妹の失礼なリアクションで、世界がほんとうに完全に無理になってしまって、四肢を放り出してひたすら寝た。でもまあ、HSPという概念を知らなければ、こうして床に伏せることも許さず、ただ辛い辛いと思っていたのだろうから、HSPだから仕方ないと自分を甘やかすことができるのは、少し楽でもある。これが特別でもなく、傍から見れば大げさで、誰からも理解されないのは同じだから、わたしにとっては意味がないことだけど。

自分で自分を心から許すことができないので、誰かに許されたい。そのためにわたしはこうですと言わなきゃならないんだけど、それを躊躇って、寄り添おうとしてくるこの本も突っぱねたくなっている。あれこれやってうまくいかなくて、これがわたしだから仕方ない  と諦めて生きている。それをこの本は否定する。やめてくれ!と思う、どうにもならない感情の落とし所として諦めを選んでいるのに。わたしがしている努力を無駄だったなんて思いたくない。肩肘張って疲れてどうしようもなくなりながらそれでもやっていく、それがわたしが生きているということだと思っていた。難しいんだよ。自分をコントロールできないと感じる由来もここにあるし、スパコン搭載もエスパーもあながち間違いじゃなかった。そうだったんだね。

わたしにとってこれが完全に地雷で、わかっていた気もするのにわざわざ自分で踏み抜いてしまった。粉々になりたかったというのも実を言うとあるかもしれない。いちから自分をつくるきっかけがほしかったのかも。いらないのは思い出や過去や物にあるしがらみじゃなくて、わたし自身だったんだな。